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うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい

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うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい - 閾ペディアことのは

(テロップ)Q.この掲示板はどういうもの?
西村「誰でも自分の好きな話題のコーナーを作って、それに対して世界中の人がコメントを載せられるようになっている」
しかし、匿名で書き込みができるため、同じ名前で投稿していても同一人物であるとは限りません。
西村「(この掲示板は)匿名っていうのが前提になりますので、まあ、うそもありますし、ひどいことも書かれますし。そういうのを、まあ、うそはうそであるとか見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しいものがあるでしょうね」

 西村氏の元発言は「インターネットの利用は自己責任」に帰結する言葉であり、『「俺は絶対嘘には騙されないし真実のみを見通せる」という人しかネットを利用するな』なんて話でもなければ、もちろん『「自分は正しい認識が出来ている」という人しかネットを利用するな』なんて話では決してない。

 そも「うそはうそであると見抜ける人」とは、「自分が嘘によって騙されるかもしれないと自覚している人」の事だ。だからこそ怪しい書き込みは頭から信用せず、嘘を見抜くための努力を怠らず、それでも自分が騙された・間違った場合、その責任を他者に仮託しない。「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」の指す「人」とは、最初からそういう事だ。

 情報の真贋を問うのは難しいが、ネット上でも信頼に足るソースは当然あるし、もしそのソースが間違っていた場合、それが間違いだと認められる事もまた、「うそはうそである」と見抜く事に繋がる。

 

うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい

 これは、コメントの一部を切り取った発言だ。そのため、その文意を知るためには発言の前後を確認する必要がある。「情報を疑う」「嘘を見抜く」「ネットリテラシーを磨く」とは、本来そういう作業の繰り返しであるはずだ。

 元々の文意文脈の中に「ネットの書き込みは嘘だったり酷い内容の書き込みもあるから、真贋の怪しい書き込みは嘘だと思え」とあるにも関わらず、元の文章を調べもせず、それどころか胡乱な記憶力を元に切り取られた(しかも引用内容が微妙に誤った)ツイートを鵜呑みにし、そこに書かれた誤った文章を文字通りにしか解釈できない人たちが、その含蓄するところを理解せぬまま「賞味期限切れ」と論じ、ドヤ顔でネットリテラシーを語る様は実に滑稽。

 さすがにTogetterコメント欄の常連利用者は元の文意を正しく理解しているようで、次々とまとめ内容(まとめられたツイート)に疑問を呈するコメントをしているのでほっとしたが(笑)。

 

 しかし、西村氏は良い意味でも悪い意味でも有名人だが、ことインターネットの利用に関してはやはり慧眼を持っていると改めて感じたり。

 

追記

 もちろん、例えば多くのまとめサイトがそうであるように、悪意を持ってデマを撒き散らすサイトもは存在する。そうした脅威に対してはインターネット自己責任論だけでは通用しないのも事実。だが、その大半は情報の論拠となるソースが曖昧で、最近話題になったニセニュースサイト「大韓民国民間報道」も、よくよくソースを調べてみればソース自体が捏造だったという安直極まりないシロモノだった。だからこそ同サイトは比較的早い段階でデマサイトだと看破されたし、関係各所の対応も早かった。

 一方で未だにデマを垂れ流すサイトは個人企業問わず存在する。つい先頃の「WELQ」に端を発したキュレーションサイト問題が起きた後であるにも関わらずだ。しかしそのいずれも、そこに書かれた情報のソースを追う事で真贋を見抜く事は可能であるし、だからこそそれらのサイトをデマの発信源として批判する事も出来る。

 重要なのは、第一に真贋不明な情報を信用しない事であり、また調べられる範囲でソースを探る事。それがネットリテラシーを磨く行為に繋がるし、もし調べた結果が間違えていたときはすぐに訂正し、かかる責任は自分で背負わなければならない。これらの自己責任を放棄し、「デマなら後で撤回すればいいと思った」「最初にデマを書いたヤツが悪い」などと自己弁護に腐心したところで、ネット上に拡散するデマや悪意は決して止まりはしない。そも世の中から他人を騙す人がいなくならないのは、その嘘に騙される人がいるからだ。それは「他人を騙す」という行為への批判と同時に、常に自分自身への戒めとして刻むべき事実である。

(老化や障碍などとの致し方ない理由で自己判断力や自己決定権がない人は例外だけれども、そこまで想定するとキリがなくなるので、とりまこれまで)