読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

自身が抱いた不快感を「マイノリティ差別」に仮託する人。

SJW ポリティカルコレクトネス セクシャルマイノリティ

www.huffingtonpost.jp

www.facebook.com

 先ずそもそもの話として「アメトーーク」の「絵心ない芸人」は、例えば「ガンダム大好き芸人」や「鉄道大好き芸人」などと違い、明らかに「絵が下手な人を笑う」という側面があり、それはこのブログ主(FBユーザー)が批判している差別性を有するのだが、その点には一切触れないのが実に白々しい。理解した上であえてスルーしているならまさにポジショントークそのものだし、理解どころか全く意識すらしてないのであれば、この人の云う差別とは「対象がマイノリティの場合にしか機能しない」ものなのだろう。

 また、番組中で笑われてるのは「オネエ」=大きな意味でのセクシャルマイノリティではなく、「二丁目のオネエ」「朝四時のオネエ」など、いわゆるオネエの中でも特定の人たちないし、ある状況下においてオネエが滑稽に見える瞬間を切り取った一部でしかない。

 このブログ主は「ウザいコンビニ店員」というコントが通用する理由として、「そのコントに出ているコンビニ店員がウザい」のであって、「コンビニ店員全員がウザい訳」では決してありませんよねと論じているが、番組中で交わされた「笑われるオネエ」が「オネエ全員を指してない」事実を無視している。

 もっと根本的な話をすれば、テレビで云われる「オネエ」とは、単純なセクシャルマイノリティを意味しない。美川憲一さん、尾木ママ、りゅうちぇるさんのような(セクシャルマイノリティではない)芸風としてのオネエもいれば、おすぎとピーコさんのような同性愛者を公言しているオネエもいるし、前述した「二丁目のオネエ」のような、素人ながら奇抜なファッションをした飲食店経営者ないし従業員のようなオネエもいる。特に「二丁目のオネエ」は多種多様で、同性愛者もいれば、ドラァグクイーンのように必ずしも同性愛者とは限らないばかりか、異性愛者やいわゆるバイ(両刀使い)も存在する。

 特にこの「二丁目のオネエ」はドラァグクイーンである場合が少なくなく、その奇抜なファッションは常識的に見れば明らかに奇態であり、彼(彼女)たち自身もそれを理解した上でそのような装いや、それに応じた振る舞いをしている。彼(彼女)たちは客や視聴者を笑わせるため、あるいは注目を集めてウケるためにそうしているのだから、当たり前の話。

 我々が「ウザいコンビニ店員」というコントを面白いと思っても、それを世の「コンビニ店員」に転化しないのは、そのコントがカリカチュアされた揶揄であると理解しているからだが、現在「コンビニ店員」をしている人たちの全てが、その「ウザいコンビニ店員」というコントを見て面白く感じるかどうかは判らない。笑いの受け取り方は人それぞれだからだ。

「笑う」という行為は非常に主観的なモノで、誰しもに通じる笑いなど存在しない。それこそ誰かが「心の底から面白い」と思って笑っても、その笑い声自身を不快に感じる人もいるのだから。

 

 もしこのブログ主がセクシャルマイノリティであり、その立場として不快感を表明し、自身が笑われる事を不快に感じたのであれば、オレは気の毒に思う。あるいはただ不快感の表明に留めるのであれば、共感はしないまでも理解や賛同は出来た。

 しかしてこのブログ主は、自身の不快感を「マイノリティ差別」に仮託する事で、「オネエ」を笑う事を差別だと論じたのだ。これは理解も賛同も出来ない。

 そもある表現が差別になるかどうかは、表現側の意識と、それを受ける当事者の意識という二つの基準が存在する。このうち表現者が「差別意識」を持って表現したのが明らかならば第三者が批判する事も可能だが、当事者意識はその当事者にしか判断できない。

 

 差別的な意図で「オネエ」を笑う事は嘲笑であり差別だが、「オネエ」を笑うは必ずしも差別とは限らない。

 これを無視し、「オネエ」を笑いとして消費する事を「セクシャルマイノリティ差別」と論じるならば、自らの振る舞いを笑いに変えて生きている「オネエ」のそれも「セクシャルマイノリティ差別」と論じる必要があるが、このブログ主はそこまで踏み込もうとはしない。

 それともこのブログ主は、例えば自ら「オネエ(オカマ)」である事を公言し、時にそれを笑いとして利用しているマツコ・デラックスさんやIKKOさんは、彼女たち自身がセクシャルマイノリティでありながら、セクシャルマイノリティに対する差別者だとでも主張するのだろうか?

 もしそういう主張でないならば、特定のオネエの振る舞いを笑いに転化する事を「マイノリティ差別」と論じるハズがないし、もしそういう主張であるならば、そんなバカげた話はないはずだ。その「セクシャルマイノリティに対する差別だ」という批判は、一体誰のための何のための批判なのだ?

 ブログ主の一連の発言は、普遍的な意味での「セクシャルマイノリティ差別に対する批判」でもなければ、決して「差別に対する批判」ですらない。それは「自分が抱いた不快感の原因」を「差別」に置換して批判する事で、誰も「自分が抱いた不快感への批判」に反論できないように仕向けたエゴそのものだ。

 そんな輩が、やれ「社会のいじめ」だの「誰かが苦しんでいる」だのとほざき、まるで自分が差別主義者と相対しているかのように主張するのだから恐ろしい。

 お前が大好きと論じた「絵心ない芸人」で笑われた「絵心のない人」は苦しんでないというのか? お前が笑った「ウザいコンビニ店員コント」で表現された表現と合致する特徴を持つ「コンビニ店員」は苦しんでも仕方ないとでも云うのか? お前が笑った表現に合致する何某かが、社会からいじめを受けてないと断言できるのか?

 世の中から苦しんでいる人をなくしたいという考えは、洋の東西貧富の差を問わず、大抵の人はそう思い描いているだろう。そしてそれが叶わない事も知っている。ただそうした人たちの大半は、「社会の不合理」と「自分の不快感」を同一視したりしない。

 もちろん、自分自身が抱いた不快な表現を「不快だ」と表現するのは自由だ。それは何人にも止める権利はない。しかして、その不快感を表明する自由に留まらず、それを肯定せんがために勝手にセクシャルマイノリティを代弁し、挙句「マイノリティ差別」に仮託して自身が抱いた不快感の肯定材料にするなど愚劣極まりないポジショントークに過ぎない