ちくわブログ

のらりくらりのちくわさんです。

社会にとって害悪でしかない、連帯責任という概念。

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 この俳優さんの迂闊な行為については(本人が認めている事もあり)そこに是々非々を挟む余地はないが、たった一人の不始末の責任を、より大勢の関係者が取らなければいけない自粛、それを促す連帯責任という概念は、社会の中で必要なのだろうかと常々思う。

 オレは昔から連帯責任という概念が大嫌いで、そも不始末を仕出かした当人のそれが故意であるならば、それを連帯責任として当人以外に波及するのは(ある意味で)本人の願いを叶えたに等しく、また故意でなく過失であるならば、尚更仕出かした当人以外には関係のない話でしかない。

 幼少期の教育において、自己責任という概念を覚えさせる目的で連帯責任という重い罰を(概念上として)背負わせる事に意味はあると思うものの、それはあくまでも躾レベルの話に留めるべきで、少なくとも大人の社会では、不始末をしでかした張本人(大人)が責任を取るべきなのだ。

 これは、例えば小中高大学などのクラブ活動におけるそれも同じ。そこで責任を取るべきは当事者とその保護者、あるいは当事者を指導監督する立場にあった者であり、当事者以外にまで責任を背負わせるべきではない。

 極楽とんぼ山本圭壱さんの淫行騒動で活動停止した萩本欽一さんの茨城ゴールデンゴールズ(アマチュアで構成された社会人公式野球クラブチーム)のように、あくまでも趣味の延長上でしかない活動を自粛するのは本人たちの自由にさせるべきだが、小中高大学などにおけるクラブ活動は彼らが社会に出てプロとして活躍するための登竜門であり、不始末を仕出かしてない人たちから経験と活躍の機会を奪うのは、社会にとって大きな害悪でしかないのは純然たる事実だろう。

 連帯責任という概念は、あくまでも自己責任を身につけさせるための方便としてのみ使うべきであり、何も仕出かしてない人を巻き込むべきではない。

 そもこうした連帯責任による自粛を促す傾向の背景にあるのは、感情論から生じる不謹慎という概念なのだが、それ自体が殆ど根拠のない主観的見解そのもので、またそうした一部の声を無駄に拡大してしまうからこそ、過剰な自粛が良しとされる。自粛=すなわち慎む側が決断すべき事象を、第三者による「不謹慎だ」という声に何ら反論せずに応じる事が半ば合意されている構造自体が不健全なのに、「自粛をするのが当たり前で、しないのは不謹慎だ」という根拠のない妄言がこの社会そのものを支配している。

 恩威並行という言葉がある。

 恩賞と刑罰が並行して行われるという言葉だが、要するに信賞必罰だ。功績は賞し、罪は罰する。罰するのは罪だけに済ませるべきで、それ以外に波及すべきではない。

 今回の件で云えば、件の俳優が活動自粛をするのも、彼の所属事務所のお偉いさんが責任を取るのも自由だが、彼が過去出演していたというだけでその作品の公開・再公開自体を自粛する必要は全くないし、そうするべきでもない。それに対して「不謹慎だから自粛しろ!」という言葉が来たなら、こう応えればいい。

「我々は罪を犯した当人を法律に委ね、またそれ以外の社会的制裁として自粛を促しました。しかし、彼の出演作品や番組まで自粛する事はその作品や番組に関わったより大勢の人間にまで多大なご迷惑をかける事となりますので差し控えました。貴方が該当の作品や番組に関わった当事者であるならば傾聴いたしますが、もしそうではなく貴方ご自身の感情的理由で不謹慎と判断されただけであれば、どうぞ彼の関わった作品・番組はご覧にならないよう切に願います」

 他人に不謹慎だ自粛しろとほざく側が、まさか自重しないなんて事はないだろう。

 どちらにせよ、当事者でない我々がすべき事は、不謹慎だと判断した作品や番組を「買わない」「見ない」「聞かない」事であり、それらを「販売するな」「放送するな」「流すな」と強要するのはおよそ筋違いだろう。

 それが被害者当人や当事者の要求であるならまだしも、そうでないなら尚更だ。