「信用に値する(信用に値しない)」と「信用する(信用しない)」の違い。
菅野完さんのツイート: "リークあって、聞いた話によると、いま、まさにこの現在、安倍は赤坂飯店に各社のキャップを呼んで、「森友のこと書くな」との圧力かけとる。これで負けたら新
「ノイホイだから信用できない」とか書いてるひとは一連のツイート見てんのかなー。自分が誰のネタに乗っかってるかわかってないのでは… https://twitter.com/noiehoie/status/835779986275479558
2017/02/28 08:46
テレビ局「あの選手宣誓の動画、どうやって見つけたんですか?」
— 菅野完 (@noiehoie) 2017年2月26日
僕「取材してて、DVD貸してくれる人出てきて合計7本都合十四時間分を全部見て見つけました」
テレビ局「内容教えてください」
僕「は?なんで?」
テレビ局「いやー、そんな長時間DVDを見てる時間ないので」#ふざけんな
ブコメで必死に論点をズラそうとコメントしている人たちが数人いるけど、
「のいほいソースだから信用しない」ではなくて
「のいほいが持ってきたソースが真偽不明だから(現時点では)信用に値しない」なんだよ。
実際問題、のいほいだろうが池上彰だろうが上杉隆だろうがデマイエローだろうが東海アマだろうが青プリンだろうが、ソース元がハッキリしているなら信用するし、そうでないなら信用しねーよってそれだけの話なんだけど、これが理解できずに信じたい情報を鵜呑みにしてしまい、そのあやふやさを誤魔化すために、批判相手が無知無学であるかのように論じる典型的詭弁で誤魔化しちゃうのが党派性の厄介さ。
つか、例の森友の動画って、のいほいさんが見つけたのか。
これはマジで知らんかった。
上のブクマの人たちは、この件があるから「のいほいさんを信用した」んだろうけど、この場合、この記事の段階だとそのソースが足りないからやっぱり真偽不明なんだよね。
ところが、この動画が各メディアに放映・転載された結果、森友側が「フェイクだ」と否定しなかった事により、動画がそのまま情報の真偽を裏付けるソースになった事で、初めて(この動画に関する記述は)信用出来る記事になったっつーのが客観的なモノの見方。
一方で未だに例の動画が確認できない状態にあったならば、記事の内容を迂闊に信用する事は出来ない。
たったそれだけの話なんだけど、結論ありきの人にかかると、この「真偽を裏付けるソースを開示する」というプロセスが省かれた情報を鵜呑みにして、「信用に値しない」情報を「信用する」事が正しいと本気で思っちゃうどころか、真偽不明な情報を信用した自分にリテラシーがあるとか知性があるとか勘違いしちゃう困ったさんな自己肯定を始めるから始末に終えないのね。
( ´Д`)「自分、詐欺師の与太話ってブコメしとるやん」
そりゃオレにとっては、昔からそういう扱いの人だっつーだけの話だもの。信用できない人の与太話だから、余計に信用できないだけ。
↓の件なんて、まさにその「信用できない」部分に拍車をかける案件だし。
でもその人が信用出来るかどうかはさておいて、それが与太話ではなく、きちんと信頼に値するソースを伴う内容の話なら信用するし、そうでないなら信用しないっつーのは、昔からのオレのスタンス。
だから、例の動画リークの記事は「信用する」けど、懇親会や設置認可の記事に関しては「信用に値しない」と判断する。ホントにそれだけの話。
世の中を0と1でしか色分けできない人たちには理解できないだろうけどね。