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ぽりこれ~ポリティカルコレクトネス~

ポリティカル・コレクトネス: political correctness、略称:PC)とは、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業性別文化人種民族宗教ハンディキャップ年齢婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。

ポリティカル・コレクトネス - Wikipedia

togetter.com

 理念は立派だし賛同も出来るけど、何故か(特に日本においては)これを推す側が自らの差別性・偏見を隠そうとせず、オタクガー、差別主義者ガー、ファシズムガーとなる辺りが地獄だなと思うちくわさんです。

 そもそもの話で云えば、このPCっつーのは表現をする側が自主的に行って初めて意味を為すモノで、それ以外の連中が表現者に対してああしろこうしろと強要し始める事自体がナンセンスなんですよね。それ、検閲=表現規制と同じじゃんって話で。

 それが国家権力による(人権や法律に反しないレベルでの)規制ならばまだしも、私人なり私人団体なりからの強制とか単なる私刑行為に他ならないワケで。当然、そんなもんに従う義理もなければ義務もないので大抵は拒否するんだけど、拒否したらしたで前述のように、オタクガー、差別主義者ガー、ファシズムガーと返ってくるワケですよ。

  あとあれだ。そもそもPCって概念は、欧米に根強く残っている「白人至上主義」「黒人蔑視」という流れありきの話であって、そういう流れを明確に持ってない日本にそのまま持ち込んでも、そりゃ機能不全になるよね。嫌韓騒動だって、結局は韓国の反日政策の裏返しでしかないし、嫌中に至っては国家VS国家の図式がそのままスライドしてしまっただけだし、「差別」「蔑視」と一まとめにしたところで元々の性質が大きく食い違ってるから、やっぱりそのまま援用しても意味がない。そんな雑な援用でドヤ顔するのは、被差別者を気取るないし擁護してマウント取りたいバカだけだもの。

 一方で日本では、悪書追放運動とか宮崎勤事件から生じたオタクバッシングからも解る通り、ヱロやオタクに対する風当たりが強い。被差別者が「差別しないでください」と叫ぶ事には大きな意味があるけど、極一部のマイノリティが勝手に全体の代表面をしたり、あるいは勝手に被差別者を代弁する人たちの声が大きくなればなるほど、そうでない人たちからの反発が大きくなるのは自明だよね。

「私の考えるPCこそが正しい。反論するヤツは差別主義者だから、差別主義者とレッテルされたくなければ黙って従え」とでも云わんばかりの傲慢なやり方で啓蒙するのではなく、「の考えるPCはこんなんです。よかったら参考にしてください」と啓発し、相手の自主的行動を促すのが、PCを正しく機能させるために重要なアクションなんじゃないかと。

 結局、PCの理念を歪めているのは、それを権利と勘違いし、自分自身の狭量な価値観や偏屈した思想で他者の言説・行動・表現を制限できると本気で思っている一部の声の大きいアレな人たちなんだよな。