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求めているのは理解ではなく、クレームの強要という話。

 

学校生活、給食など苦慮 ムスリムの子に「理解を」

(2017/2/7 08:53)

生活に不安を抱えるムスリムへの実情に理解を求めるエフィ・グスティ・ワフユニさん=4日、浜松市中区
生活に不安を抱えるムスリムへの実情に理解を求めるエフィ・グスティ・ワフユニさん=4日、浜松市中区

 静岡文化芸術大主催の多文化子ども教育フォーラムが4日、浜松市中区の同大で開かれ、静岡県多文化共生審議会委員で、インドネシア出身のエフィ・グスティ・ワフユニさん(39)が講演した。県内のイスラム教徒(ムスリム)への調査を基に、ムスリムの子どもたちが学校生活で給食や礼拝などに苦慮している現状を報告。「ムスリムを取り巻く問題改善のきっかけになれば」と訴えた。
 調査は昨年11月、県内在住の同国人ら26家族を対象に、学校生活や職場で困っていること、対応策などを尋ね、実態を初めて公表。「ハラール対応」ではない学校給食に多くの保護者が悩んでいる様子が浮かび上がった。大半が毎日弁当持参か、豚肉使用のメニュー時におかずを持参する対応を取っていて、「給食は食べるが豚肉は残す」ように子どもに指示している家庭もあった。
 学校や職場で、お祈りや断食、女性が頭にかぶる「ヒジャブ」を禁止された例や、侮蔑の言葉を投げ掛けられた体験談も示された。
 エフィさんは、ハラール対応の給食を出す福岡県内の私立保育園や金曜日の礼拝を例外的に認める浜松市内の学校などを紹介し、「ルールだから駄目というのではなく柔軟な対応を検討してほしい」と理解を求めた。

学校生活、給食など苦慮 ムスリムの子に「理解を」|静岡新聞アットエス

 そもそも日本の義務教育課程における給食システムが何のためにあるのかっつーと、それは就学児童の栄養不足を解消するため。元々は戦前から実装されたシステムで、高度経済成長期の辺りに形骸化されかけたものの、昨今では児童虐待や育児放棄への対策として新たに見直されている面もある。

 また、特に昨今ではアレルギーに対する理解が進んだ結果、文科省が学校給食における食物アレルギー対応を各学校に求めるため、その指針を作成するというケースもある。

アレルギーとハラールの違い。

 では、ハラールとは何であるか。以下のリンクに詳しい。

www.jhalal.com

 ぶっちゃけ読めば解りますが、要するにロハスと同じです。「食べ物には清浄なモノと不浄なモノがあり、自分たちは清浄なモノしか食べません。その食べ物が清浄か不浄かを決めるのは神様です」という、いわゆる「宗教上の理由」以上でも以下でもないド直球です。

 食物アレルギーは本人の好き嫌いと一切関わりのない生態反応であり、これを克服するのは重度であればあるほど不可能に近いですし、軽度であっても体調不良に繋がりますし、重度の場合は死の危険性すら生じます。だからこそ対応せざるを得ないのですが、食べても死ぬどころか体調を悪くすらしない、よしんば体調を悪くするとしてもそれはただの感情論の問題=本人の主観の問題でしかない事にまで、いちいち行政が対応する必要は全くありません。

 日本ハラール協会は「イスラーム教徒のハラール食へのこだわりは、ただ単なる人の好き嫌いではありません」と説明していますが、それはただの好き嫌いよりもっとエゴいモノでしかありません。己の宗教観に基づいた主観的忌避を、まるでアレルギーか何かと同じ生態的な問題に挿げ替えようとしたり、差別問題に錯覚させようとしているのですから。

親が子供に対し、自分と同じ宗教を信じるように「強要」する事は児童虐待である。

 そもそも、学校給食とは義務教育過程の児童に提供されるものです。彼らが自分の意思で信じるモノを選択可能とするためには、日本では一般的に成人するまでの猶予があります。それまでは少年法をはじめとした様々な法律によって、時に庇護され、時に制限されています。ただ、 そこにある子供たちの意思はあくまでも彼ら自身のモノであり、親がなすべきは彼らの健全な成長であり、それは未来の可能性です。

 子供が望んでハラールを選択したのであれば、その意思は認めるべきです。しかし、親のエゴで子供に教義を押し付けるのは立派な児童虐待です。イスラム圏では宗教が政治や文化と不可分になっているため気付かないのでしょうが、選択の余地なくムスリムの道を進むしかなかった子供を守るためにも、宗教儀礼に基づいた食のタブーを学校教育の過程でわざわざ認める必要はありません。

 まして、弁当の持参や給された給食を残す選択肢が認められているのであれば、それで充分柔軟な対応を行っていると云えるでしょう。学校給食の主旨を考えれば、最大限の譲歩と云ってもおかしくありません。

 それ以上を望むのは決して理解を求めているのでなく、クレームを受け入れろと強要しているのと同じです。

差別とは不当な扱いをする事。

あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約
1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。

 記事では、ハラールへの理解がない事を、お祈り、断食、ヒジャブの着用などを禁止された例と侮蔑された事を関連付け、差も差別であるかのように扱っていますが、これらの扱いはあくまでも「学校や職場に私事を持ち込むな」というルールであり、「日本において宗教的儀礼の一切を禁じる」ではないのです。その事と、宗教的儀礼を知らないモノによる侮蔑は全く別の話です。

 そういう意味で云えば、ムスリムの文化を理解して欲しいと望む声が上がるのは道理ですし、理解もできます。しかし単なる理解ではなく、その理解の上に(理解する以上の)要求を望むのであれば、それは理解を求めているのではなく、自分たちのルールを強要しているのと同じです。

 宗教的儀礼は学校や職場に赴く前や帰宅後に好きに行えばよいのであり、もしその宗教的儀礼が文化として生活に根ざしているモノであり、他国の文化と共生が出来ない・難しいというのであれば、そうした儀礼に対応している個別の宗教学校を選択すべきでしょう。

 そも、他国で自国の宗教的文化への理解を求めるのであれば、その前にその他国の文化を先ず理解すべきです。少なくとも日本は国民ないし在日外国人の信仰の自由を害しませんが、だからといって公的・私的を問わず、あらゆる宗教儀礼に対応する必要は全くないのですから。

 仮に「学校教育を受けるのを禁ずる」という教えの宗教があったとして、その宗教的儀礼を認めて児童から教育を受ける権利を奪うのは、果たして正しい事でしょうか? また、新興宗教の教義はダメで、昔からある宗教の教義ならOKと云うのであれば、それこそが宗教差別そのものでしょう。いずれも区別しないからこそ、そうした個々の選択肢の結果によって生じた主観的な自己制限=義務は各々が負うべきですし、その義務が児童の不利益になるにも関わらず国家が容認するのであれば、それこそが児童虐待という人権問題そのものです。

「我々の宗教文化はあなた方のルール上では奇異に見えるかも知れませんが、理解してください」と「我々の宗教文化に基づいた宗教儀礼を認め、そのためにルールを改定してください」は明確に違う要求なのです。

何事にも一定の配慮は必要だが、全部を認めていたらキリがない。

 個人的にはヒジャブやブルキニくらいは認めるべきだと思うけど、結局一つ認めると次は次はと際限がなくなるので、やっぱり宗教観に基づいた文化を生活規範にするならば、それに対応した国にいるのが一番いいと思うのですよ。

 オレなんてヱロ絵を自分でも描くし、もちろん他の方が描いたそれを見るのも大好きだけど、海外ではそれが法的にアウトの国もあるのね。じゃあそういう国で「ヱロ絵を描く表現の自由を認めろ!日本では自由だぞ!人権侵害だ!差別だ!国家による弾圧だ!」と声高に叫ぶのが正しいのかと云われると、全くそうは思わない。

 多分その国の、ヱロ絵禁止の法律に満足している人は「じゃあ日本に帰れよ/ヾ〜〜╋┓」って云うんじゃないかなあと。

 もちろん、実はヱロ絵描きたいと思ってる人たちが多くいれば、ルールが変わる可能性はあると思うが、ムスリムの場合はあくまでもイスラム教という宗教が規定になっているので、それは人権を前提とした問題提起とは異なるから、やっぱり難しいと思うっつーか、イスラム教文化圏でしか通用しない屁理屈そのものだよね。

 例えば、ちょっと前の中国では、文化としてそこいらで糞尿を垂れ流したりゴミのポイ捨てをするのが当たり前で、これはほんの数十年前の日本でも同じ事だった。でもマナー・倫理・道徳・衛生といった観念が上昇した結果、それはよろしくないんじゃないかって事になり、現在では不道徳として扱われているけど、仮にその文化が残っていたとして、他国で糞尿を垂れ流したりゴミのポイ捨てを「我々の文化だ、受け入れろ!受け入れないなら差別だ!」とするのが正しい事かと云われるとやっぱり違うよね。その国にはその国の文化に基づいたルールがあって、それを守る必要がある。

 もちろん必要に応じてルールは柔軟に改定すべきだが、それはあくまでも大半の人にとってプラスに働く場合にそうするべきであり、一部の人の主観に基づいて行う必要は全くない。

 ムスリムは自分たちの生国がそうであるし、同胞(同じ信者)が多いから勘違いしているけども、ムスリムのルールはムスリムのためだけのモノであって、非ムスリムにとっては何の関係もないどころか、場合によってはマイナスになるルールだという自覚が全くない事そのものが、一番の問題なんだと思う。

 

追記。

 駄文書いてる間に、いいまとめできてた。

togetter.com

 んでさっそく、ハラル認証された肉が簡単に手に入る事と、ハラル認証された肉を用い、(コスト、安定した流通経路、調理環境、配膳などなど様々な問題点をクリアして)学校給食として提供出来るかどうかって事が全く分別出来てないウルトラバカが、ドヤ顔で他人をバカにするという地獄ブクマがついたよ! バカって果てしないから凄いね!

ハラール認証に対しての考察 - Togetterまとめ

おバカさん達、ハラール認証された肉が日本でも簡単に手にはいることも知らんのだな。

2017/02/10 22:07

b.hatena.ne.jp

「宗教に寛容である」という事は、特定宗教の教義を信じたり、教えを守って生活する事を悪し様に否定せず、理解する事であり、特定宗教の教義を受け入れる事じゃないんだけど、その辺りの区別がついてない人が善人ぶって識者風吹かすのが困った話なんだよなあ。

 今回の問題に関しては、ムスリムの戒律で通常の給食が食べられないという事情に配慮し、弁当の持参や食べられない給食は残してもよいという代替案が出た時点で終わってる話なのね。

 特定宗教と関わりのない人たちにとって不利益とならない代替案すら認めて貰えない状態こそが「宗教に不寛容」な状態なのであって、そうした代替案を認めてもらって尚、特定宗教と関わりのない人たちにとって不利益となる宗教儀礼の成立(この場合、ハラルの適用により牛や豚が食べられなくなる児童)を否定するのは、不寛容でも何でもない。

 特定宗教の宗教儀礼を優先した結果、そうでない人たちが不利益を被るならば、それを認める事は寛容でも何でもない。それは特定宗教の優遇であり、それ以外の宗教や非宗教者に対する差別そのものだ。

 今回の件でムスリムの肩を持つムスリム以外の宗教者や非宗教者って、特定宗教の宗教儀礼を優先する事をアファーマティブアクションか何かと勘違いしてんじゃないかなあ。

 もちろん前述した通り、ヒジャブやブルキニのように代替可能で他者に迷惑をかける要素のない儀礼の容認や、侮辱の言葉を投げられるといった差別とは切り離して考えるべきなのは前述通り。