ちくわブログ

のらりくらりのちくわさんです。

多文化共生のメリットを語る事なく、それを受け入れない日本人を批判する人たち。

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 これなー。別に云ってる事は間違いじゃないんだけど、典型的なお前が云うな案件でしかないんだよな。未来を決めるのは若い世代だし、世の中の流れに達観した老人を待つのは自分の死だけで、それを大人しく座して待つならまだしも、自分の死や理想を若い世代に押し付けるのに失敗した挙句に「平等に貧しくなろう」だなんて、傲岸不遜にも程がある。

 そもそも、無駄に主語がデカイのも批判される要因。例えば、「私は多文化共生に耐えられないので、豊かさと引き換えに移民を受け入れるくらいなら、移民を拒否して貧しい方がいい」という個人意見なら「そうだねプロテインだね」で済む話なのに、自分と考えの異なる相手に対するわら人形批判なんだから、そりゃ批判されるわって話で。

 多文化共生の話にしても、そもそもアメリカやオーストラリアといった移民で成立した国が行き詰まって、アメリカファーストだのワンネイションだの出てくるワケだから、最初から上手く行くわきゃねーんだけど、その上で「どうすれば上手く行くのか」っつー具体的方策や思索がないからこそ「デメリットが大きい」と否定・反対されてるのに、それに対してやれ「日本人は寛容さが足りない」「日本人は排外主義者だ」などと論じれば、そりゃ余計に反発されるだけだろバカじゃねえのって話でさ。

 そもそも移民の成功例が少ないのが問題なんだけど、移民推進派はそこいらを無視し、移民反対を唱える側を「寛容さが足りない」「排外主義」「人権意識が希薄」だなどと、頭ごなしにバカにするばかりで、決して移民を受け入れた場合の未来を語ろうとはしない。何故なら、そういう連中は自分の言動に責任を持つつもりなんて全くなくて、移民反対派を非人道的と批判する事でマウントを取りたいだけだからね。

日本は寛容か不寛容か?

 移民賛成派は、兎角日本(日本人)は不寛容であると主張したがるが、果たしてそうだろうか? この問いに関しては、何処に論点を置くかっつー話でしかないとオレは思う。

 根本的に日本人の排外性が強いのはその通りで、そういう意味では不寛容と云える。ただし、それはあくまでも「場の空気に馴染もうとしない人たち」に対する拒絶反応であり、相手が他県民だろうが外国人だろうが、馴染む努力をする人を拒絶するような排外性や不寛容さは持たない。そればかりか、そうして馴染んだ人たちが持ち出した新しい文化を取り入れ、自分たちに合うようにカスタマイズできる柔軟さがある。だからこそ今我々はテレビだのスマホだのパソコンだの、外国語が由来の言葉を外来語として、母国語(日本語)に馴染ませ、日常会話の中で平然と使う事が出来るワケだしね。むしろ、そういうカスタマイズを文化侵略だの何だのと批判しているのは、特定の少数民族の側だし。アイヌ警察なんてその典型だよね。

 そういう点を踏まえてると、確かに日本は「国籍や民族が異なる人々が互いの文化を認め合い、対等な関係を築きながら地域社会の構成員として生きる多文化共生」には向いてない。ただし、「国籍や民族が異なる人々が互いの文化を認め合い、それを日本での生活に向くようにカスタマイズしつつ、対等な関係を築きながら地域社会の構成員として生きる」事は出来る。

 多文化共生での一番の問題は、移民者=国籍や民族が異なる人々の文化が、移民先の国民にデメリットをもたらす場合であり、移民反対派が恐れているのはまさにその点にある。

 特に日本は国土が狭いのに文化圏が都市部に集中しているため、そうした都市部に他国のように外国人自治区を作るのも難しいし、移民が勝手にそういう文化圏を作ってしまえば、より大勢の日本人に嫌われるだけになるだろう事は想像に難くない。

 一方で田舎には土地が余っているので、もしオレが移民受け入れを推奨するなら、今現在使われてない田舎の土地を移民に明け渡し、その移民の特色に応じた特別自治区を形成させる事を考えるけどね。もちろんトラブルが起きた場合の根拠法は日本の憲法と法律が優先で、米軍基地のような治外法権は認められないが、それだけにお互いが気軽に「異国の文化」を楽しむための素地になると考える。また、企業はそうした自治区に対し、特定文化に完全対応した工場や施設を建てる事も出来るし、そうなれば需要も生まれる。

多文化共生という名の文化の押し付け。

 しかして、アイヌ警察のようにポリコレ棒を振りかざすのが大好きな連中がすでに国内に存在する事を踏まえると、日本でいわゆる「多文化共生」を実現するのは難しいだろう。

 彼らはアイヌの文化のみを大事にし、日本人と文化的に交わる気はないどころか、アイヌ文化に影響を受けたコンテンツを揶揄しては、やれ「文化侵略」だの「少数民族に対する差別」だのと論じ、場合によっては「自分たちはアイヌであり倭人=日本人ではない」とまで云う。もちろん、彼らが日本という国家に守られている同じ日本国民である事実は揺るがないのだが、アイヌのように遠い過去から日本列島という同じ場所で生活していた文化圏からすら、そのような一方的拒絶が生じている以上、遠い外国から来た人たち、それも日本の文化に馴染もうとしない人たちが多くの日本人に受け入れられるのは難しいだろう。

 一方で、コンビニなどにはすでに多くの外国人労働者が働いている光景をよく見かける。もし彼らが母国の文化を優先し、仕事中に断食したりお祈りしたり安息日には働かないなどと云い出したら、雇用主も容易には雇用できないだろう。その逆で、そうした条件をあえて飲んだ上で雇っている雇用もいるかもしれない。いずれにしても、それは個々の事例であって、これをもって多文化共生が成立しているとは云えない。

 ただ、すでに日本の文化に馴染もうとしている、あるいは馴染んだ外国人は受け入れられている。その事実をこそ、移民反対派にマウンティングする事しか考えてない意識の高い移民賛成派は理解すべきなのではないだろうか。