主語を大きくしてしまう病。
人間とは兎角権威主義に走り勝ちな生き物で、知らず知らず何かしらの権威に盲従したり、自分の主義主張を是とするのにそうした権威を持ち出す事で、然も自分の主義主張が正しいモノであるかのように錯覚させてしまう厄介な性質を持ちます。
これは権威に訴える論証(権威論証)と呼ばれる詭弁の一種ですが、特に「私が気に入らない」の主語「私」を「男性」「女性」「我々」「日本人」などのように、より分母の大きな対象に摩り替える行為を、オレは「主語を大きくする病」と呼んでいます。
(以下、サムネイルが性的な絵のため、今回は文字リンクのみ。嫌いな人は閲覧注意で)
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「主語を大きくする病」はネット上ではよく見かける現象です。これは主義主張の好悪是非や左右を問わず現れ、殆どの場合それらは他者の言動を批判する材料(論拠)として用いられます。
これらが極めて厄介なのは、自分自身の主義主張が正しいと信じる余り、何の疑問もなく例えば「私が気に入らない」「私は不快だ」という主張の主語を無闇に大きくする事で、その気に入らない表現を封殺しようとする性質にあります。
そもある表現を忌避する場合(視聴や読書を強要されたワケでもない限り)普通は自分から触れなければ特段の問題はないハズです。
一方で「好まざると見る機会が多い」性質から、例えばテレビやラジオなどの公共電波による放送・CM・報道、公共広告などには一定の自主規制ラインが存在し、特段の理由がない限り、それに逸脱しないよう各表現者は努力をしています。ただ、それらの自主規制ラインはあくまでも団体・企業などによる独自基準であり、それを法律に反しない限りどう扱うかは自由です。
例えば、少年犯罪者の実名報道や容疑者段階での実名報道*1などはその典型でしょう。
自主規制ラインを私企業や個人にまで求める「主語を大きくする病」の人たちは、私的と公的の区別がつきません。あるいは、本質的に私的見解が公共性を有していない=一般論的批判が通用しない事実を認めているからこそ、単なる不快の表明に留める事が出来ず、批判対象の表現そのものを封殺するために主語を大きくした批判を用いるのです。
「主語を大きくする病」は、もちろん事実としてそのような病理病態が存在するワケではありません。あくまでもネット上でよく見かける現象に対する揶揄であり、中二病などと同じモノです。
それだけに大変厄介なシロモノであり、これは近年エスカレートする傾向にあります。去年話題となった「まなざし村」や「ポリコレ棒(ポリコレ棍棒)」などはその典型と云えるでしょう。
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「主語を大きくする」原因は、殆どの場合において、自分自身の主義主張の論拠の裏打ちです。
例えば、「私」を「男性」「女性」などと置換する場合、その目的は自分の主義主張に共感する人間の多寡をアピールする事で、然も自分の主義主張をその置換対象が支持しているかのように見せかけるのが目的です。このような場合、その主義主張に反論すると置換対象扱いされなくなります。これは上記の「まなざし村」騒動でよく見かけた例ですね。
一方、「ポリコレ棒(ポリコレ棍棒)」騒動は典型的な権威論証です。ここで用いられている権威は「ポリティカル・コレクトネス」ですが、多くの場合その使われ方は誤っていて、本来それは「表現者が自主的に配慮するモノ」であるにも関わらず、「自分が気に入らない表現を批判・罵倒・封殺する目的」で使われます。これが「棒(棍棒)」と揶揄される原因にもなっています。
そも、ある作品で配慮された表現は、あくまでも「その作品を発表するに当たり、表現者が自らの政治信条に基づいて行ったその作品の独自基準による自主規制」でしかないにも関わらず、それを「絶対且つ普遍的なワンアンドオンリーの基準による絶対的な指針となる規制」と勘違いして妄信する事もまた、勘違いを生む大きな原因の一つと云えるでしょう。
「主語を大きくする病」は何故安易に使われてしまうのか。その答えは簡単です。共感を呼びやすいからです。自分と主義主張を同じくする相手の存在は自分自身の主義主張の正しさを何ら担保しませんが、ある種の安心感を喚起します。
特に「主語を大きくする病」の人たちのそれは、日常生活を営む上で大きな障害になるであろうと目される主義主張が少なくありません。反原発運動におけるゼロベクレル運動などはその典型ですね。彼らは一切の被爆を認めないと口にしますが、人間自身が放射線源のためこれを達成する事は不可能ですし、現実に福島産の作物は市場に多く出回っています。ネット上でのゼロベクレル運動は根強く、またそれを主張する人も少なくないように見えますが、日常で福島産作物に対する非買運動のような抗議活動を目にする機会はそう多くはないハズです。少なくともオレは現実で見た事はありません。反原発デモですら、その本意は原発の即時停止ですから、福島産作物を流通させるなとか買うなと云った主張はほぼ目にしません。
斯様に、比較的閉じられた運動ですらそうなのですから、その疎外感の強さは想像通りでしょう。そういう背景があればこそ自らの主語を大きくし、その主張に賛同する人の数が増えれば増えるほどに安心し、また同時に自らの主義主張が正しいモノだと錯覚してしまうのです。
そうして、論拠の全くないただ主語が大きいだけの主義主張は「正しいモノ」として彼らの中で共有され、それに反するモノは「正しくないモノ」と分類され、排除・排斥されてしまうのです。そうして生じる作用は極めて中毒性が高いのか、この詭弁は使えば使うほど同じ主義主張ばかりを繰り返すようになってしまうのが最大のネックです。
「主語を大きくする病」は病気ではありませんが、何処かでそのロジックが論理ではなく屁理屈であり、何ら思考的論拠を持たない空理空論だと気付かないと、一時の共感・共有に酔いしれ、その快感を得るためにまた同じ論調を繰り返し使ってしまうという依存状態が傾向として見受けられます。
これらを断ち切る唯一の手段は、自分が抱いた感情・感想は自分自身だけのモノであり、他人と共有する必要もないし、される必要もないと自覚する事です。ある事例に対し、自分だけが異なる感想を持っても何もおかしくはありませんし、逆に自分の感想が大多数の感想と同じであったとしても、(それ自身が唯一の法的あるいは科学的に正しい結論を持たない限り)それはあくまでも多数決的な一致に過ぎず、それがワンアンドオンリーの正しい見解とは限りません。
世の中には自分と同じ考え方の人もいれば、そうでない人もいるし、あるいは自分自身の考え方はそれこそ自分独自のモノかもしれない。その差異に是々非々や善悪をつけるのではなく、人の考えは十人十色・千差万別と認める事こそが、「主語を大きくする病」から逃れる手段となるでしょう。
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逆にイケメンが脚広げたりくっちゃべったりする真ん中にハゲのキモ顔リーマンが脚閉じて膝上に鞄乗せてるイラストに「ここに一人、イケメンがいます」というコピーとかが、ある意味チャレンジングかなと思い付いた。
2017/01/19 09:45
キュンと来た。そのアイデア、マジかっけえ。
*1:ただし、最高裁判例によると「公益性の高い実名報道は違法とならない」との見解があります。https://www.bengo4.com/c_1009/c_19/c_1092/n_5145/