ちくわブログ

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保毛尾田保毛男はゲイ差別のために生み出されたキャラクターだったのか?(あるいは、石橋貴明はゲイ差別者だったのか?)

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 LGBTに関わる差別問題の侃々諤々で一番厄介なのは、当事者でない層が当事者を代弁してドヤ顔キメてイキっちゃう事だと思ってるんですが、この件に関してはまさにそれがクリティカルしてしまい、本質的な問題が明後日の方向にシフトしてしまいがちなのが困ったもんで。

 結論から先に云うと、問題にすべきは「他人の言動を差別の自己肯定に使う人たち」の存在そのものであって、その言動が差別であるかどうかはまた別の話って事なんですよね。

 言動そのものが差別であるなら、それを法的な問題として処すべきだし、法的に問題はなく道義の問題だと述べるなら、それは典型的な「お前がそう思うなら(ry」案件でしかない事に気付かないと。

 そも「他人の言動を差別の自己肯定に使う人たち」とは何であるのかと云えば、保毛尾田保毛男というキャラクターを「ゲイ差別」に使う人たちの事です。それは保毛尾田保毛男というキャラクターを「ゲイ差別の象徴だ」と主張し、保毛尾田保毛男というキャラクターを使ったコントを楽しむ人たちを差別主義者と罵るLGBT当事者たちであり、またそれら自称LGBTの主張を援用し、更に保毛尾田保毛男というキャラクターを使ったコントを楽しむ人たちを差別主義者と罵る人たちの事でもあります。

 そのいずれも「保毛尾田保毛男」というキャラクター及びそれを使ったコントに法的な問題があるかどうかの質問には一切答えず、「我々が差別と認定したのだから差別だ」と云う在特会やしばき隊を彷彿とさせる俺ルールによる私刑を堂々とやる辺り、相当に末期というかこじらせ臭が強い。

 まあこういう話をすると「法的に問題がないなら何をやってもいいのか!」というありきたりの反論が出てくるワケですが、それに対しては「そうだよ」としか答えようがないワケで。他にどうしろと。法的に問題がなく、それが道義的に問題かどうかは個々の価値観に大きく左右されるなら、その是々非々を決めるのは誰やねんって話でしかないんだけど、その決定権が自分にあると信じて止まないナチュラルボーン正義マンには理解出来ないんですよね、これ。

 

 じゃあどうするべきなのかと問われれば、それは無視をするしかない。自分が気に入らないモノ、不快に感じるモノに積極的に関わらなければいけない事情はそれこそ道理がないのだから、自分から近づかなければいいだけの話。

 保毛尾田保毛男というキャラクターを使ったコントが「公共放送として相応しいかどうか」という話にしたいのなら、BPOに審議を申し立てればいい。BPOお手盛り組織で信用出来ないというなら、結託して裁判所に訴え出ればいい。本当に全てのLGBT保毛尾田保毛男というキャラクター及びそれを使ったコントを批判しているのなら、集団訴訟を使う事で一人一人の費用負担はかなり低く抑えられるし、実際、抗議したLGBT団体もあるのだから、そこを中核として裁判を起こせば、ほぼノーリスクでアクションを起こせるはず。

 しかし現実としてそうならないのは、結局のところLGBTが一枚岩ではなく、保毛尾田保毛男というキャラクター及びそれを使ったコントが気に入らない人たち、あるいはそれを遠因として傷つけられた過去を持つ特定の人たちが騒ぎ、その騒ぎに便乗した人たちが乗っかって同じように騒いでいるだけで、それ以上でもそれ以下でもない話。

差別とは本来何であるのか。

 現在30代後半以上のオタクならオタクタレントの宅八郎氏を引き合いに出されて、オタク弄りをされた経験がある人もいると思うが、一方でそれを宅八郎氏の問題に挿げ替える人は少ないと思う。「オレがオタクして苛められたのは宅八郎が原因だ!」って人を、オレはオタクとして当時も現在も見た事がない。そもそもの問題は「オタクを苛めるのに宅八郎氏を持ち出して自己正当化する人」そのものであり、オタクである事も、まして宅八郎氏が問題であるなんて事もない。

 これと全く同じ事で、保毛尾田保毛男というキャラクターには罪はないし、それを利用したコントにも全く罪はない。もし罪があるとするならば、それは保毛尾田保毛男を創造した石橋貴明氏が、ゲイを差別する(侮蔑する、嘲笑する)という意図でそのキャラクターを生み出した場合に限られるが、石橋貴明氏(というかとんねるず自体)は芸能界デビュー当時から常識外れの露悪的パフォーマンスで人気を博した芸人だけに、彼の生み出す表現が穏当なモノであった事自体が圧倒的少数のため、その露悪性を差別と結びつけるのはかなり無理がある。もちろん「いいや、差別的意図があったのだ」と主張するならば、それを主張する側にこそ証明義務があるのは云うまでもない。

 

「差別主義者」という言葉は実に厄介な性質を持っていて、これを安易に他人に向けて使うと自分に跳ね返るという事を理解せずに使っちゃう人たちほど、自分の差別性に無自覚になりがち。

 では何が差別であるのかとするのはホントに難しいけど、国連のそれに則るならば次のようになる。

1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。

International Convention on the Elimination of All Forms of Racial Discrimination

  読めば判るけど、差別の様態とは「人権の行使を妨げる」事であり、「露悪的表現」そのものは禁止されていない。

 もし「保毛尾田保毛男」が差別性を発揮するとするならば、それはそのキャラクターを通じて、ゲイを社会的に阻害・分断・排斥する事を是とする場合であって、だからこそその差別性は「保毛尾田保毛男」を利用し、ゲイないしその疑いをかけた対象を社会的に阻害・分断・排斥しようとした個人に問われるべきであり、「保毛尾田保毛男」自身を差別の象徴として扱ってしまうのは、極めて悪手でしかない。

 これの何が悪手なのかと云えば、結局のところ自分たちの都合の良し悪しで差別性の是非を決めてしまっている事だ。

 

 芸能界にはレイザーラモンHGというキャラクターが存在する。このHGは本来ハードゲイの意味*1であるが、同キャラクターを演じている芸人・住谷正樹さんはゲイでも何でもなく、女性と結婚し、子供もいるヘテロである。

 レイザーラモンHGは芸人同士の飲み会の席で、後輩芸人と一緒に変なくねくねダンスを踊ってスベったところ、ケンドー小林さんが「ハードゲイか!」と突っ込んだ事から誕生したものであり、ゲイをリスペクトしたキャラクターではない。にも関わらず、このキャラクターがLGBT団体、あるいはLGBTを自称する人たちに批判・非難されたという話は殆ど聞いた事がない。また同キャラクターが起こす言動はお笑いの対象であって、ゲイをリスペクトするような内容でもないにも関わらずだ。

 一方で保毛尾田保毛男の言動によって生じる笑いは「差別だ」と云う。その違いは何であるのかは、保毛尾田保毛男批判を見れば一目瞭然だ。要するに、保毛尾田保毛男は気持ちが悪いからアウトで、レイザーラモンHGはそうでないからセーフなのだ。実に馬鹿馬鹿しいが、そうとしか結論づけようがないのだからしょうがない。どちらもゲイに対してリスペクトがあるワケではないし、その言動は他人を笑わせるためのもので、ゲイを差別する意図はない。にも関わらず、保毛尾田保毛男だけが差別で、レイザーラモンHGは差別ではないとする理由は、両者のビジュアルと言動以外に判断しようがない。

 結局、保毛尾田保毛男を差別の象徴とし、ゲイ差別だと批判している人たちは、容姿の劣っている者や、奇妙な言動は批判しても良いとしている自分の差別性にとことん無自覚なのだ。

そもそも保毛尾田保毛男とは何であったのか。

 保毛尾田保毛男批判をしている人たちの殆どはそれを見ていないか、あるいは見ていたとしても、被害者妄想から事実を捻じ曲げて認識している節があるので、ここでまとめたいと思う。

 先ず保毛尾田保毛男が初登場したコントは「おかげです中学」で、このコントでは、石橋氏が毎回異なる個性的な教師を演じており、保毛男はその中の一人に過ぎなかった。しかしそのキャラクターは人気を博し、スピンオフとして保毛男がメインのコント仕立てのドラマが番組内に生まれた。それが「保毛尾田家の人々」で、これは当時放送されていたドラマのパロディにもなっている。主要登場人物は石橋貴明氏が演じる保毛尾田保毛男と、故岸田今日子さんの演じるお姉様がメインで、それ以外は殆ど登場しない。

「~の人々」における保毛尾田姉弟は幼い頃に両親を亡くしており、保毛男の奇態な振る舞いとオネエ言葉は亡き父と姉の影響であり、実際にゲイであるかどうかは本人曰く「ただの噂です」として劇中では否定されている。そこには保毛男が亡き父の遺言「普通に生きなさい」という言葉を守り、ゲイである自分を否定して「普通」になろうとしている悲哀も感じ取れるし、保毛男にとっての普通とは亡き父と姉であるという見方も出来る。

 少なくともこのコントドラマでは、保毛男をゲイ(ホモ)として揶揄・差別する人物は出てこない

 

 次に、更なる派生作品として「保毛太郎侍」というコントドラマが登場する。これは表題通り「桃太郎侍」のパロディであり、「~の人々」が主要登場人物の少ない静的なドラマであったのに対し、こちらは「桃太郎侍」以外の時代劇のパロディもふんだんに取り入れられた痛快活劇となっている。

 ここでの保毛男=保毛太郎は明確に男色家として表現され、男性(中でも美男子・美青年)に対しては下ネタを連発して隙有らば襲おうとするが、女性に対してはそっけないどころか、小突いたり橋から突き落としたりするのは日常茶飯事という実に豪快で奔放なキャラクターである。しかし、そういう部分を除けば正義感と義侠心に溢れる人物のため、市井からは男女問わず好かれている存在として描かれていた。また同作ではその性質上、保毛太郎を「ホモ」「おかま野郎」と罵る悪漢が登場するが、彼をそう呼び蔑んだキャラは、常に彼によって斬られ討ち取られる役回りだった

 

 その他にも派生作品はあるが、一先ずさておく。

 斯様に保毛尾田保毛男」が奇態を演じている事そのものは否定しようのない事実だが、同時に差別を助長する内容も事実として存在しない。「~の人々」では単にゲイ疑惑に対して「噂です」と返答するだけの内容でしかないし、「保毛太郎侍」に至っては、ホモ・おかま呼ばわりで保毛太郎を馬鹿にする全ての人物が成敗されるべき悪漢として描かれているのだから、むしろ事実は差別の助長とは正反対の内容である。

 

 当時、保毛尾田保毛男を理由として謂われのない差別を受けた人は気の毒に思うが、それは差別の理由として保毛尾田保毛男が使われただけの事でしかない。その当時、たまたま理由として使われたのが保毛尾田保毛男であっただけで、仮に保毛尾田保毛男が存在しなくとも、貴方を差別した人たちは他の理由を見つけて貴方を差別した事は想像に難くない。

 差別を批判するために必要なのは「差別の正当化を否定する」事であり、差別をする側の文脈に乗っかり、罪のないキャラクターに罪を着せるべきではない。ましてただ「気に入らない」だの「気持ち悪いからアウト」だのと云う見解は、それ自体が蔑視=差別性を孕むモノであるという自覚を持つべきだ。

 その表現そのものに特定対象を阻害・分断・排斥する要素は何も存在しないにも関わらず、気に入らない何かを差別と認定するための牽強付会な理由付けによるスケープゴート的批判はそろそろ止めるべきではないだろうか。批判すべきは「差別をする者」そのものであり、それらが利用する「何か」をそのまま「差別そのもの」に挿げ替えるのは、それこそが阻害・分断・排斥を生むもう一つの差別に過ぎないのだから。

*1:彼が登場する番組の時間帯や性質によっては配慮のため、その意味をハイグレードとする場合もある。